岩窟の聖母

この作品『岩窟の聖母』 は、ほとんど同じ図柄の絵が2つあります。

ひとつはこの画像の方。これはパリのルーヴル美術館に、もうひとつはロンドンのナショナルギャラリーに展示されています。

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この絵画は一説によると、「ヘロデ大王の幼児虐殺を逃れてエジプトへの逃避行の途中、岩窟に身を潜める聖母子と、天使に守られた洗礼者ヨハネの姿」が描かれたと言われています。

この天使は大天使ウリエルであるという主張もありますね。

または、外典『ヤコブ原福音書』の降誕説話に基づいて、ベツレヘム近くの岩窟を舞台に、洗礼者ヨハネと大天使ガブリエルを加えたものだという説もあります。

これはつまり受胎告知と降誕、受洗という3つのエピソードを同時に表しているとされます。

このルネサンス期の宗教画には、複数のエピソードを組み入れる画面構成がよく見られるので、もしかしたら後者なのかもしれません。

キリストの洗礼

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「キリストの洗礼」(1472 - 1475)

この作品は、ヴェロッキオと共作です。
ヴェロッキオ(1435頃-88年)は、レオナルドやロレンツォ・ディ・クレディなど、とても弟子に恵まれた芸術家でした。

彼は、フィレンツェ派の金工家であり、優れた彫刻家、画家でもあったのです。最初は金工家として修業を始めており、すでに人体の運動表現に魅力的な手腕を見せていたそうです。

現在、ヴェロッキオは、他よりも50年先を見据えた芸術家だったとの評価も受けているほど。そんな新しい表現を持った彼の工房は、15世紀後半のフィレンツェにおいて最大のものだったと言われ、多くの芸術家の修業の場となっていました。

この『キリストの洗礼』は、主要部分はすべてテンペラで仕上げられています。

そして、左側に座っている天使だけは、レオナルドが油彩を用いて描いています。

これがレオナルドの油彩第一作だと言われていますが、それを見た師ヴェロッキオは、あまりの優雅さ、完成度の高さに、これを限りに絵筆を折ってしまったと伝えられているほど・・・。

それは伝説かもしれませんが、それほど素晴らしかったということですね!

最後の晩餐

最後の晩餐は、ダ・ヴィンチが彼のパトロンであったルドヴィーコ・スフォルツァ公の要望で描いたもので

キリスト教の聖書に登場する、イエス・キリストの最後の日に描かれている最後の晩餐の情景が描かれています。

ヨハネによる福音書13章21節より、「12弟子の中の一人が私を裏切る」とキリストが予言した時の情景です。

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この絵はミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれたもので、

サイズはかなり巨大です。

レオナルドはこの作品に1495年から制作に取りかかり、3年もの年月をかけて完成させました。

遅筆で有名なレオナルドにしては速いペースだったと言われています。

また、ほとんどの作品が未完とも言われるレオナルドの絵画の中で、完成した数少ない作品の一つですが

最も損傷が激しい絵画としても知られています。

『最後の晩餐』が見られるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院は

世界遺産に登録されているので、いっぺんに3つもの素晴らしいものを見ることが出来る

めずらしい場所ですね!

レオナルドの死

レオナルドは、1519年5月2日にフランスのクロ・リュッセで死んじゃった。
下の絵ではフランソワ1世にハグされて亡くなる様が描かれている。
本当はこのような場面はなかったけど、王様とレオナルドの仲の良さが良く分かるんじゃないかしら。

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レオナルドの遺言状には、彼の葬式に60人の貧乏人に60本の松明を持たせ参列させることと書いてあった。なぜ・・?

そしてフランチェスコ・ダ・メルツォの裁量にて彼らに参列代として銭を与えること。
またさらに、その松明を四つの教会に分けることを望んでいる事などが遺されていた。
アンボワーズにある聖フロランタン教会に埋葬されたけれど・・・以降に墓荒らしに遭い、遺骨は行方不明・・・。

レオナルドが若かったときは、「この世で最高の美男子」と言われる程のハンサムだったんだけど1人の女性と親しい関係になる事もなく生涯、独身だった。ちょっと、寂しいかも・・。

年金を受けて・・・

1513年と1516年にはローマにいて、その頃ローマではラファエロやミケランジェロが活躍していたよ。
ラファエロはレオナルドの絵を真似て写し、影響を受けているんだけど、ミケランジェロとのつながりはほぼなかったんだ・・・残念。

1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同じ年にミラノを占領したよ。フランソワって響きがいいね。

この時、レオナルドはボローニャで実施されたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に抜擢されて、初めてフランソワ1世に出会い知り合ったとされている。
以降、フランソワ1世の保護を受けて、1516年からは王の居城アンボワーズ城に隣接し、フランソワ1世が小さい頃に暮らしたクルーの館に呼ばれ、年金を受けて残りの人生を過ごした。
王様に可愛がられて良かったですね、これで余生もばっちり!

友人

レオナルドには、沢山の友人がいたの。
以下は、その例です。
有名人たちがずら~。

* ミケランジェロ
* ファッジョ・カルダーノ - 数学者、法学者
* フランチェスコ・メディチ - 画家で教え子
* ジェラルモ・メディチ - ミラノ軍の大佐
* ジョバンニ・フランチェスコ・ラスティシ
* チェーザレ・ボルジア - 軍人
* ニッコロ・マキャヴェッリ - 作家
* アンドレア・ダ・フェッラーラ
* フランチェスコ・ナーニ
* ルカ・パチョーリ - 数学者
などなど☆

1502年8月から

1502年8月から、レオナルドは教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者として働いていたの。

でも・・・8ヶ月程度でフィレンツェに戻って、アルノ川の水路変更計画や、ヴェッキオ宮の壁画などの仕事に就いたよ~。やっぱり好きな仕事がいいよね!

1506年にスイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォルツァが治めるミラノに戻った。
そこで、生涯の友人になる、後継者ともなったフランチェスコ・メルツィに出会うんだ!
運命の出会い!

ミラノを離れる

1499年10月、ルイ12世率いるフランス軍が侵攻すると、イル・モーロは逃亡し、ミラノは戦わずに陥落した。レオナルドはミラノに留まったが、フランス軍の射手が騎馬像の粘土原型を練習の的にしているのを知り、ミラノを離れることにした。1500年、弟子のサライ (Salai)や友人のルカ・パチョーリと共にマントヴァへ行き、2か月後にはヴェネツィアに、暮れにはフィレンツェに戻った。

ジャコモ

1482年から1499年にかけて、レオナルドはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)に仕えながら、自分の工房を開いて独立した。レオナルドはイル・モーロから巨大なスフォルツァ騎馬像の制作を依頼されたが、戦争が迫ったため騎馬像のための銅が大砲の製造に転用されてしまい、計画は頓挫した。レオナルドはミラノで、ジャコモという非常に美しい少年を引き取った。ジャコモには盗み癖があったが、レオナルドはサライ(=子悪魔という意味)の愛称をつけてかわいがったという。

フィレンツェにて

確証には欠けるが、レオナルドは14~16歳でフィレンツェに移ったとされる。画家見習いとしてアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に学んだ。この工房でヴェロッキオの絵画『キリストの洗礼』の一部を描いたが、その出来は師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話がある。レオナルドに嫉妬したという説もあるが、工房の絵画部門は彼に任せて本業である彫刻に専念した、というのが真相らしい。 1472年にフィレンツェで画家組合「サン・ルーカ同心会」に登録されている。